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稲場圭信の研究室 Keishin INABA

大阪大学大学院教授(人間科学研究科):専門は共生学。地域資源(寺社等宗教施設と学校)と科学技術による減災が近年の研究テーマ。日本最大の避難所情報、未来共生災害救援マップ(災救マップ)開発・運営

「利他行ネットワーク論」再び

「利他行ネットワーク論」に関する論点をここにアップします。

・稲場圭信「現代宗教の利他主義と利他行ネットワーク」『宗教と社会』第4号 1998年7月 153-179頁

要旨:本研究は、日本の現代宗教における利他主義に焦点をあてて筆者が提示した理論的枠組み「利他行ネットワーク(the Network of Altruistic Practice):他者を思いやり、他者のために善行を実践する人々のつながり」に関する研究である。新宗教の道徳思想及びその世界観について、島薗進が提示した「和合倫理」と対馬路人らが提唱した「生命主義的世界観・救済観」を検討した上で、分析概念「利他行ネットワーク」を用いて現代宗教信仰者の社会に対する意識、利他主義を考察し、利他行ネットワークの行方を展望した。

さらに:
さまざまな問題を抱える現代社会に対応して、現代宗教は平和運動・福祉運動など利他的な活動を積極的に展開し始めた。個々の信者の信仰理由も以前のような貧病争から多様化し、精神修養や社会貢献などの利他的な理由をあげる信者も増えてきている。そのような現代宗教における他者を思いやり行動する人々のつながりを「利他行ネットワークthe network of altruistic practice」と呼ぼう。

「利他」は元来「他者を思いやり、救済につとめること」を意味する仏教用語であるが、近年、諸分野で使用されている。また、動物行動学者や遺伝学者をはじめ諸科学者が、altruismの訳語として利他主義や愛他主義を区別なく使用している。本論文では、信仰者が「利他」「利他主義」を実践する、修行とする、そして信仰に目覚めるという意味で「利他行」という言葉をもちいるが、仏教に限らず現代宗教の利他主義を考察し、信仰者の社会倫理に対する分析概念として「利他行」という言葉を用いることにする。

「ネットワーク」という言葉は、近年、さまざまな分野で用いられ、定義もさまざまであるが、ここでは「自由意志で参加した個人が相互に影響し合う緩やかなつながり」とする。

「利他行ネットワーク」を定義すると「自由意志で、他者を思いやり行動する、あるいはそのように努める人々の緩やかな人間関係」となる。このネットワークは、相互に影響し合いながら、利他的な精神を他者へ伝えていく。ここでいう「他者」とは「自分以外の人」を意味する。「利他行」の内容は、人の悩みを聞くことから社会福祉活動まで多岐にわたる。信仰者にとっては、布教活動が究極的な利他主義の行動といえるのかも知れないが、ここでは布教活動も他の行動や活動と同様に、「他者の緊急事態、困窮、不利な状況の解決、あるいは改善を目的とした行動で、自分自身の利益の達成が主たる目的でない行動」である場合には、すべて「利他行」とする。この定義は、自分自身に副次的に利益がもたらされる場合や、行動の結果としての幸福感といった内面的な利益がもたらされる場合を排除するものではない。

利他行ネットワークは、その時々に応じて形成される人間関係であり、固定化された具体的な集団ではない。集会、説法会、座談会、奉仕活動、社会福祉活動などで形成され、その規模はわずか2人の場合もあれば、数十人となることもある。たとえば、信者が、教会、寺、道場などでたまたま出会った時にも形成されうる「他者を思いやる人間関係」である。少人数の集いや相談会などでは、内容が信者自分自身の悩みである場合が少なくないが、その信者に対して、参加者が利他的な思いやりをもって相談にのったり、話を聞くという点で、そのつながり、人間関係は利他行ネットワークである。

利他行ネットワークは、一般社会にも漠然と存在する和合倫理や生命主義的世界観を体系的思想や、確固たる信念としてもつ日本の現代宗教と関わりがあるところに存在するものとする。宗教と関係のない慈善団体、非政府組織団体などにも利他的な行動する人たちの人間関係は存在する。そして、そういった人たちの方が強い利他的な意識をもっている場合もあるが、ここでは、日本の現代宗教の利他主義に焦点をあて、「何故、利他主義が現代宗教で説かれるのか」、「それが、現代社会においてどう機能しうるのか」という問いに対する分析のための概念として提示している。また、諸外国への利他行ネットワーク概念の適用有効性についての検討は準備中の別稿に譲らねばならないが、生命主義的世界観に類似した世界観の存在や和合倫理につながる相互扶助の思想は、日本以外の文化への適用可能性を十分に示唆していると考えられる。

利他行ネットワークは、現代宗教に特有のものとするが、排他性をもち内部の相互扶助だけにとどまる人間関係ではない。利他行ネットワークには、他者を思いやり自己反省をする修養主義、社会の改善のために実践をする社会改良主義の傾向が多かれ少なかれ見られる。調和や和が尊重される世界観の中で、利他的な意識は、自己反省をともない身近な他者から普遍的な他者へと広がるにつれて、社会問題などへの意識を喚起するのである。教団外の養護施設に出向いての社会福祉活動などの外部への支援活動や救援救済活動がその現れである。その一方で、宗教者の利他行は「余計なお節介」になることもある。しかし、これは一般社会における利他的行動についても同様である。ボランティア活動では繰り返しこの問いかけがなされる。同じ行動に対して、それを有り難く受け取る人と、迷惑と受け取る人とが存在するからである。また、その行動を第三者的に、利他的な行動とも、余計なお節介とも解釈することができる。ここでも、先の定義に振り返って、「他者を思いやり行動する、あるいはそのように努める」という目的意識に重点をおくが、利他行ネットワークにおいて目的意識が利他的であれば余計なお節介であってもそれは許容される、ということではない。「他者を思いやり行動する、あるいはそのように努める」ということは、その結果をも他者を思いやり不断に自己反省することである。

利他的な精神は、身近な他者から普遍的な他者へと意識が広がるにつれて、社会問題などへの意識を喚起し、国際紛争問題、環境問題や福祉問題などの社会問題に対して利他的意識をもつ人もいるが、「どうしたらよいかわからない」、「自分一人では何もできない」と行動に移さない人が存在する。一般社会と同様、現代宗教団体においても、教団方針や説教で示される「世界平和」「国際貢献」などの社会改良主義には賛成できても、理念としてあまりにも大きなものなので、個々人が主体として参加しているという意識が希薄になってしまう。個々の信仰者が主体として実社会に関わっていく、積極的な利他的行動への橋渡しの可能性を利他行ネットワークは内在している。こうした実社会への「利他行」の働きかけは、老人・心身障害者ケアや難民キャンプへの物資提供などの「ボランティア活動」という形で行われることが多い。

ボランティアの根本精神は自発性にあり、日本におけるボランティアの伝統的なイメージは無償の奉仕であるが、欧米では、他者及び環境への直接的には自分の利益にならない自由意志にもとづく行動といえる。日本と欧米で、ボランティア活動のイメージは若干異なるが、利他的な精神が存在することは共通である。自由意志にもとづく利他的な精神が根本のボランティア活動は、自らの自由意志による行動の結果として自分自身が苦しい傷つきやすい立場に置かれる「自発性のパラドックス」がともなう[金子郁容1992: 103f]。偽善的と言われたり、他者を思いやり行動した結果トラブルに巻き込まれたり、そして、他者を思いやった自らの行いを自問自答するような立場に立たされる。しかし、利他行ネットワークでは、日々、教義・法話・説教・体験談や雑談で「利他行」の大切さ・素晴らしさが説かれる。そして、耳から入ってくるだけの知識ではなく、まわりには「利他行」を実践している仲間が存在する。たとえ、偽善的と言われようが、信仰があたえる世界観と「利他行」を実践する仲間の存在により「自発性のパラドックス」を克服できる可能性を持つ。「相手を思いやり実践している教えの先輩・仲間の姿がすばらしい。自分もそうしよう」、そして、「この素晴らしさを他の人にも伝えてあげよう」と、利他行ネットワークに新たに加わったその人が、今度は他の人に利他的な精神を伝えていく可能性が生まれる。利他行ネットワークでは、「利他行」の実践・体験を通して、理念観念や理屈を超えて利他的な精神が培われる。そして、利他的な精神に目覚めた者が体験的知識に支えられた利他的な精神を一般社会へ伝えてゆく可能性をもっている。

利他行ネットワークにおける他者を思いやる精神は、一般社会の道徳で説かれていることとそれほどかわらない。また、従来の宗教における利他主義と比べても格別新しいものではない。しかし、利他行ネットワークは、深いつながりを持つ共同体が崩壊した近代以後、現代社会に存在する宗教団体にその時々に応じてさまざまな形で形成される新しい形の緩やかな人間関係として提示している。

以上が理論的枠組みとしての「利他行ネットワーク」である。筆者は、NGO団体やボランティアとしての活動などを通して、現代人のひとりとして現代社会の変化や現代宗教に見られる変化の兆し、現代社会へのあらたな応答を感じている。近代合理主義が突きつけた強い個人から成り立つ社会に対し、支え合う社会、支え合う人間関係が現代人では求められているのではないだろうか。現代社会に存在する宗教団体は、この社会現実から完全に遊離して存立することは難しい。こうした現代社会が抱える問題も現代宗教の社会への応答も従来のものとは当然ながら異なっている。

宗教的世界観や思想が利他行ネットワークを根底で支えている。時々に応じて利他行ネットワークの構成員は変化しても、その世界観や思想を多くの構成員が共有している。しかし、世界観や思想を共有しない人には奇異に感じられ、そのことが閉鎖的な感覚を与える場合もある。また、強い宗教的信念により、特に布教活動などにおいて独善的になり、相手の立場に立った利他的な反省がなされない可能性も内包している。

その一方で、利他行ネットワークが、一教団としての排他性、閉鎖性を乗り越えて、教団外部の人に利他的な倫理観を伝えていく可能性もある。しかし、この利他行ネットワークの広がりは独自の宗教性を希薄にする方向性も併せ持つ。福祉活動・社会活動に積極的になり、社会に対する意識から普遍性を希求する結果、超教派的志向性や脱教団的志向性を形成し、信仰から離れてゆく方向性である。この利他行ネットワークがもつ両面性は、今後の研究における中心課題である。

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