親切会の機関誌『親切だより』に連載の「希望の扉」
・稲場圭信「希望の扉 第20回:福島は今」『親切だより』2012年9月号 No.586 2頁
(部分抜粋)
京都大学で七月一一日に開催されたシンポジウムに私はコメンテーターとして参加しました。講演者の一人、東日本大震災復興構想会議の委員をつとめた玄侑宗久さん(芥川賞作家、福島県三春町福聚寺住職)は、福島の現状を「ぐちゃぐちゃ」、「なし崩し」と表現して、福島の人たちの苦悩を訴えました。約六万二〇〇〇人の福島県人が県外に避難しています。福島県内の放射線量の低い地域に移動して暮らしている人もいます。一方で放射線量が高い地域に住み続けている人もいます。様々な事情で、家族の中、地域の中でも対立が生まれています。
七月二三日、私が世話人の一人として関わっている東北被災地支援の情報交換会で、「NPO法人チーム二本松」理事長の佐々木道範さんが福島の今を語りました。佐々木さんは福島県二本松市にある寺院の住職で、幼稚園の理事長も兼任しています。二本松市の子どもたちの首には積算線量計がぶら下げられ、被爆量が毎日測定されているのですが、線量計には数値が表示されません。三ヶ月毎に行政に線量計を渡し、後日、被爆量が通知されるのです。最初は数値を教えてくれなかったので、子どもの親御さんたちが立ち上がり行政に働きかけ、やっと実現したのです。
放射性物質は目に見えないので、幼児には、なぜ外で遊んでいけないのか、泥いじりをしていけないのか、草花を触っていけないのかがわからないのです。佐々木さんは言います。原発事故から三ヶ月ほどして、子どもたちは外で遊びたいと言わなくなった。何かに絶望し、あきらめたと。しかし、七夕では、短冊に「そとであそびたい。ほうしゃのう、なくなれ!」と子どもたちが書いたそうです。
福島では、子どもたちが安心して外で遊べるようにするために除染作業が進められています。先日、私も除染ボランティアに参加しました。ナイロン素材のレインウェアに長靴、ゴム手袋。吸い込みによる内部被爆をなるべく防ぐためのマスクをしての作業です。
まず放射線量を測定。スコップで地面表土を削ぎとり土嚢袋へ入れる作業。放射線量が高い植え込みの草の刈り取り。そして、あらたに運んできた土を入れ、平らにして、その上にセシウムを吸着させるゼオライト(本来は土壌改良剤)を引きつめます。マスクをしての作業で、汗だくになりました。自分で体験してはじめて、この作業の大変さと、終わりが見えない取り組みということを実感しました。
私たちは何を守ろうとしているのでしょうか。小さな子どもたちの細胞が傷つけられ、地域社会の人々の心が引き裂かれていく現実を前に、もう過去のことのように風化させ、経済を優先する社会。変われない人たち、目が覚めた人たち。せめぎ合いの今、市民が声をあげました。福島の子どもたちを安心して遊ばせたいとの親御さんたちの切実な願いに応え、この夏、福島県外の三〇〇以上の場所で、保養プログラムが実施されています。
小さな子どもたちが大人になった時、「二〇一二年の当時、あなたたちが変わらなかったために、動かなかったために、こんな世界になってしまった」と言われるか。あるいは、本当に時代の転換期だった、よかったと思えるか。
もちろん、きれいごとではなく、現場での様々な矛盾にも出会いながら、心の中の葛藤に向き合いながらの営みです。自分が動いても世の中は変わらない、と思考停止では、本当に何も変わらない。小さな一声の積み重ねと継続が変革の力になります。まさに、涓滴岩を穿つ。この言葉に希望の扉を開く精神を感じます。