「心のケアから丸ごとのケアへ-共感縁と無自覚の宗教性-」
http://21c-kaitokudo.osaka-u.ac.jp/sqalf/lecture~reportB#b-7

日時=12/14(水)18:30~20:00
■講師=人間科学研究科・准教授/稲場 圭信
■講義要旨
東日本大震災に心のケアの重要性が指摘されている。しかし、「心のケア」と構えた姿勢では、ケアにはつながらない。まずは、寄り添うことから始まる。本講義では、共感縁と無自覚の宗教性から、寄り添いのボランティア、丸ごとのケアについて話した。
まず、医療機関による心のケアチームについて簡単に紹介し、兵庫県こころのケアセンター・副センター長である加藤寛氏が指摘する、被災の状況を聞き出すことのリスクに言及した。そして、被災者が復興・再建に向かう気力が出るのを見守り、そっと寄り添う伴走者としての丸ごとのケア(何でも屋、御用聞き、土台のお手伝い)が、心のケアにつながること、心だけを切り取って考えることの問題を指摘した。
日本人の多くは自分は無宗教と思っているが、先祖に対する感謝の念や神仏や世間に対する「おかげ様」という思いは生きている。この「無自覚の宗教性」も支援の輪が広がっている背景にあろう。大切なことは、できることを何でもさせて頂くという姿勢だろう。そして、相手に寄り添うことが、心のケアにつながるということだろう。地域のつながりを奪われ、家族を無くし、あらゆる縁を失った人たちが、これから生きていく、それを多方面でサポートする。苦難にある人に寄り添い、ともにすることにより、その人の心が開かれる。そのような関わりが心のケアにつながるのであろう。
四方僧伽北海道という仏教者グループの上川泰憲氏は、岩手県大船渡で、そのようなケアを継続して行っている。物資を運び、仲間の美容師がヘアカットをし、レストランシェフが中心となって食事を作り、ミュージシャンが音楽を奏で時をともにする。そこに人間関係が作られる。彼らが活動をして、北海道に戻るときには、被災者は彼らの手を取り、抱き合い、再会を約束する。そして、彼らは再び訪問する。人間的なつながりがそこにある。
1995年、阪神淡路大震災が起き、ボランティア元年と言われた。支え合う社会に変わるように思えた。しかし、その後、日本社会のあり方は変わったのだろうか。利益と効率のみを追求し、人を物のように使える・使えないで切り捨て、自己責任論のもと個人に過剰の負担がかかる社会。勝ち組・負け組の分断社会。地縁・社縁・血縁が奪われてゆく無縁社会。利益効率、業績主義。ひとたび「駄目」とレッテルを貼られると、はい上がれない「ダメ出し評価社会」の中で、誰もが人からの評価を気にして生きた。そして、2011年3月、東日本大震災、福島第一原子力発電所事故。「支えあい」「思いやり」が大事だと捉え直す人は増えている。
今の日本社会、他者を助ける行為、利他的行為を自己犠牲とは感じない人々がいる。お互い様、そのような相互関係の心、連帝感が生まれている。私たちの中にある、苦難にある人へ寄せる思い、共感である。あらゆる縁が弱まった社会に、今、「無自覚の宗教性」にもとづいた「共感縁」が生まれた。心だけを切り取ったケアではなく、この共感縁による支えあいの連携、被災者に寄り添う伴走者としての丸ごとのケアが重要であろう。
主要参考文献 稲場圭信『利他主義と宗教』弘文堂
■受講生の感想など(アンケート回答より抜粋)
・丸ごとのケアにより、自然な形で相手に寄り添うことの重要性が理解でき、興味深かった。
・災害と宗教とのかかわりについて、心のケアに宗教の果たす役割が重要または効果的というお話がありましたが、確かに宗教者の有する受容性はカウンセリング面で大きな力を発揮されるものと感じています。
・ボランティアとネオ・リベラリズムとの親和性は考えられないのでしょうか。また、ボランティアとナショナリズムの関係をどのように考えればよいのかお聞きしたかったです。